新港とは何か

幼い自分自身の記憶によれば「新港」は海に面して造成された工業団地。
潟に隔てられていて向こう側の中学校に練習試合に行くとなると
万葉線「越の潟駅」まで自転車で行き、フェリーに乗って渡った。
「この町はいびつな形をしているんだな」
その程度の認識だった。

新湊新港は元は「放生津湖」「海龍湖」または「放生津潟」と呼ばれ、
海に面し海と結ばれた湖であった。
風光明媚な様子はこの土地に残された「舟遊び」の漢詩からも見てとれる。
しかし近代化が進むにつれ、港の整備は必要不可欠なものとなり
やがて放生津湖は港へと姿を変えてゆく。

大正に入り具体的に「放生津湖築港構想」が発表されたが多くの難問が立ちはだかる。
今でも評価が分かれるのは富山駅との直通路線の廃止の件ではないだろうか。
新港を放生津湖への掘り込み式で造成することが決まり、海沿いを走る射水線は廃線となった。

実はこれより30年も前、明治22年(1889年)に地元放生津有志たちにより「放生津湖築港に付建言書」
地元選出議員である南磯一郎の賛同を得て当局大臣に提出されている。
伏木の藤井能三の「伏木築港論」は1991~1992に著したとされていて
この頃、放生津、伏木両地で新港計画が非常に活発に議論されていたことがわかる。

藤井の能登屋、放生津の綿屋はともに先代が高岡井林屋から養子に入った兄弟であり、
能三、13代彦九郎は従弟であり盟友でもあった。
(当家の由緒書と少々異なる由緒書も存在するが親戚であったことは確かである)
東京から旧藩主・前田公が檄を飛ばす。北陸をなんとか近代化せねばばらん、と。

この歴史を知り「新湊新港」をあらためて訪れてみると
格別な思いが沸き起こりました。
見る景色も全く違います。
これは単に工業団地ではない、ゆるぎない意思の結実の姿に見えました。

「放生津湖築港に付建言書」について記載した1974年出版「新聞に見る90年 北日本新聞創刊90年周年記念上/新湊築港に関して代議士諸君に望む」の記事写真は掲載期間が過ぎたため削除しました。



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