安政時代になぜこのような大きな邸宅を建てたのか。
当時の建築技術、作庭技術の粋を集めようとする意識があったのではないか。

棟梁は、幕末の大阪城大修繕に加わった名宮大工・高瀬輔太郎と言われています。
庭に関してはまだ資料は見つかっていません。
しかし、池を配した回遊式の庭園作りには技術者が関わったに違いなく、職人たちの高い技術を放生津の地に結集させようというのが大きな狙いだったと考えます。

屋敷の周りにはりめぐらされた堀はかつての水路でした。
堀の両側には当時の石組みも当時のまま残っています。
小舟に積み替えた米俵は海の湊口からそのまま堀を伝い、この綿屋の米蔵に納められました。
江戸時代の風景を今に伝える貴重な先人の足あとがこの地にあります。

庭に立ち、建物を眺めていると、大工、庭師、石工ら職人の息遣いが聞こえてくるようです。
彼らの心は、今もこの空間に残っていると感じます。



令和5年(2023年)9月、まだ暑さが引かぬ蒸し暑い夜、祭りのお囃子が放生津綿屋に響き渡りました。
高岡ケーブルネットワーク『歴史都市高岡ふしぎ帖シーズン26 綿とニシン編 第1話「綿と高岡と北前船」』
放生津綿屋を取材していただきました。たいへん勉強になりました。



隣家は笠松で有名な専念寺
米蔵と水路跡

歴史を埋もれたままにしない 
Don’t let history remain buried

放生津は万葉の昔から海人の大集落を形成し、鎌倉期には守護所が置かれ、南北朝時代には宗良親王が滞在。そして室町時代末期には、将軍足利義材(よしき)が五年に渡り政務を執った歴史のある地です。

江戸期、背後に広がる射水平野の大穀倉地が加賀藩の財政を支えるようになり、漁業が盛んで、地の利を生かした海運により長崎や上方の文化を吸収し、そして北海道との交易で豊かな食文化も育まれました。

どれだけ素敵な町であったか。
その過去の記憶と記録を未来に伝えていくことが、現在に生きる者の使命であると考えます。

■埋もれた歴史がまだまだいっぱい

放生津湖築港二付建言書一件
(石川県立歴史博物館蔵/大鋸コレクション宮林家文書)

放生津に近代港を造るという夢は、明治22年、すでに地元有志らで練り上げられ、富山県選出議員・南磯一郎代議士の賛同を得て、当局大臣へと働きかけがなされていました。
残念ながら包封のみで中身の文書は不明ですが、北日本新聞「新聞に見る90年」(1974年)明治29年の「寄書」にその内容が詳細に記されています。

明治2年。13代彦九郎(右)と龍造さん。
まだちょんまげだったことがわかる。
(放生津北前船資料館蔵)
(放生津北前船資料館蔵)

駕籠(幕末~明治時代)
(放生津北前船資料館蔵)
明治時代、新湊~金澤間は、北陸道を徒歩や駕籠で往復してたのではないかと考えられます。
小矢部川を船でさかのぼる方法もありますが、どちらにしろ、倶利伽羅峠という難所を通っていくため、
大変な苦労があったと思われます。現在では新湊~金沢間は車で約1時間です。
社会が激変する中、北前船船主らの活動を展示
近代化への道のり

困難を極めた波除け工事

この歴史をいちばん丁寧に掘り起こしたいと考えています。
なぜなら、放生津の姿がいちばん変わってしまったのが海岸線で、襲い来る波との闘いがまさに放生津の歴史だと思うからです。

※編集中

太刀山と雙鬟山

これは「たてやま」と「ふたがみさん」と読みます。
どちらも私達にとってたいへん馴染み深い山です。

最初、「ふたがみさん」と読めず、「そうまんやま」と読んで、古地図でその山を探しました。
しばらくして、これは「ふたがみさんでは?」と教えていただき、はっとしたのです。
この時代は漢字の当て字が非常に多く、それは念頭にあったものの気付きませんでした。

「太刀山房絶句鈔」は越中の漢詩人・山田新川(やまだしんせん/1827-1905)の漢詩集、
「雙鬟山房詩稿」は13代彦九郎の漢詩集です。

彦九郎は15歳頃から漢詩を山田新川に学びました。
一回り以上も歳の差はありますが、山田は彦九郎を「子弟でもあり友でもあった」と言い、よく共に遊んだようです。
彦九郎追悼式でそう述べているのですが、最初しめやかな言葉が並べられましたが、しばらくすると暴露大会のようになってきて、お騒がせな話も出てきます。これは現在の放生津綿屋でも重大事件となっており、150年経ってもなお、お騒がせな13代なのでした。

山田新川漢詩集(放生津北前船資料館蔵)
13代彦九郎漢詩稿(放生津北前船資料館蔵)
山田新川
(放生津北前船資料館蔵)
13代彦九郎
(放生津北前船資料館蔵)

宗良親王像

宗良親王像 (富山県射水市本町3丁目12―5付近)

これは下牧野の地に昔から在った像です。
由縁も何も分からなかった為、後の土地所有者の要望で放生津綿屋の門前に引取られました。
今は三日曽根の方々が地域のお地蔵様とともに温かく供養してくださっています。

ある時、この風変わりな像に興味を抱いた方が像に被せられている帽を取り、帽の内側にびっしりと書かれた文字を見てびっくり仰天。
そこには、「中務卿征東将軍宗良親王の霊」と書かれていたのです。

宗良親王は、父・後醍醐天皇の建武の新政が崩壊し南北朝時代に突入すると、南朝方として全国を股にかけて活躍をされ、越中奈古の浦に滞在されたとの記録と歌が数首残っています。
足利尊氏が一時的に南朝に屈した際には、後村上天皇から征夷大将軍に任じられましたがその興亡は激しく、宗良親王終焉の地は今も特定には至っていません。
現在では長年拠点であった信濃国大河原薨去されたとする説が有力とされているようですが、越中説もあるようです。


■帽の中には…

絵図をとり交ぜて書かれた内容は、薨去の際の様子を表したものかと思われるものもあります。

「宗良親王之霊堂」
「表羽二重裏麻晒ニテ製」
「霊ヲ□□□左右ヲ折掛ケタル図 白羽二重二棉ヲ入テ製ルの図」
「柩之図 檜を曲テ製ル」「高サ二寸八分径リ三寸一分」
「玉ハ甲州傳云 親王御魂二納メテ乾水ノ時□□□…」……

拝顔すると、苦難の表情というよりは優しく微笑みかけていらっしゃるようにも見えます。
縁あってこの地に来られたわけですから、ずっとこの町を見守っていただけたらと願っています。

消えた雪見岡(ゆきみがおか)

富山県のホームページに【富山県内の雪がつく地名など】というページがあり、

富山県/富山県内の雪がつく地名など (pref.toyama.jp)

【雪見ケ岡(ゆきみがおか)(高岡市)】
南北朝時代の興国3年(1342)後醍醐天皇の皇子で歌人の宗良親王はひそかに奈呉(なご)浦(旧新湊市)の辺りに潜伏して南朝のために尽力しました。旧新湊市に隣接する高岡市下牧野・上牧野の地をその遺跡地と伝承し、上牧野には文化7年(1810)の「樸館塚」の碑が建ち、海保青陵の撰文を刻みました。下牧野には「故さとの人に見せばやたち山の千とせふるてふ雪のあけぼの」など四首を刻んだ歌碑が建ちます。立山の歌にちなみ、この丘を雪見ケ岡と称しました。明治33年(1900)庄川・小矢部川両川分離河川工事のため、古来の雪見ケ岡は水没し、現在の碑・寺などは若干東に移転いたしました。
「富山県の地名((株)平凡社)より抜粋」


と紹介されています。

明治25年11月、専念寺で行われた13代彦九郎追悼式で寄せられた漢詩の短冊に、次のようなものがあります。

13代彦九郎追悼会での漢詩の短冊
(放生津北前船資料館蔵)

注目したいのは、作者名。
「雪見岡守護平元中」とあります。

「雪見岡」とは、「雪見岡守護」とは、いったい何でしょう?

「雪見岡」については、宗良親王がその雪見岡から眺める景色がたいそうお好きで、特に、雪を頂いた立山の景色をとても愛されたとの話が残っています。今は川となったその地をいつか探して訪れてみたいと思います。


加賀藩前田慰子姫と放生津

■慰子(やすこ)姫

明治維新後しばらくは加賀前田家のお子さま方は東京へ赴かれたご両親と離れ井波・瑞泉寺へ。
その後、慰子(やすこ)様を当家でお預かりすることになったと言われています。
なぜお子さま方を越中に残されていたのか。
この内情はあまりよく分かっていません。
東京の政情が不安定だった為とも言われていましたが、
お父様の前田慶寧公が結核に罹り、療養先の熱海で明治七年にお亡くなりになっています。
もしかすると、お父様のご病気が背景にあったのかもしれません。
後の明治九年、慰子姫は有栖川宮威仁親王と婚約、十三年に結婚されています。

「屋寿姫君様のお献立」についてはこちら

■巨大な沓脱石の謎
御姫様はその姿を人に見られてはいけない為、駕籠に乗られたまま座敷へお上がりになったそうです。ですから駕籠かき達が駕籠を担いだまま座敷に上れるよう、大きな踏み台が必要だったとのことです。知られざる物語が今もあちこちに散らばっています。

■この唐人称揚図の襖は金沢城から持ち込んだものではと考えられています。まだ幼い慰子姫が少しでも心安らかにいられるようにと、部屋作りに心を尽くした形跡が随所にみられます。慰子姫の居室は今も当時の面影をそのまま残しています。(放生津北前船資料館蔵)

鶴が描かれた杉戸
(放生津北前船資料館蔵)
襖の裏にかわいい立鶴の引手が
(放生津北前船資料館蔵)
鶴の釘隠し
(放生津北前船資料館蔵)

■有栖川宮家の嘆き

有栖川宮威仁親王を父、慰子姫を母とする有栖川宮家の嗣子である栽仁王(たねひとおう)は、
明治41年4月、御病気により薨去されました。
皇室典範では養子縁組が禁止されているため、有栖川宮家は断絶となりますが、古くより継承されてきた祭祀は有栖川宮家の旧名である高松宮家に引き継がれることとなります。

(放生津北前船資料館蔵)
(放生津北前船資料館蔵)

北風荘右衛門

北風荘右衛門家が発行していた相場表?
(放生津北前船資料館蔵)

放生津綿屋に関する様々な資料によれば、文政4年(1821年)、北風荘右衛門の沖頭となる、との記述があります。
しかしこの頃の由緒書は兄弟のものも含めて書いてあると思われ、沖頭になったのが綿屋のどの人物なのかはよくわかりません。

放生津綿屋は、北風荘右衛門から綿を買い入れ、加賀藩への納入を一手に任されていたということですが、調べていくと加賀藩領内の綿の取引に関しては非常に複雑で、各文献や論文もバラバラ。いつか時系列にして詳しくまとめてみたいと考えています。

さて、上の写真のような資料が見つかりました。
明治初期の価格表と思われますが、これをどのように手にして、どのように利用していたのかは謎が多いです。

北風荘右衛門は北国の北前船主らから商品を仕入れる際、取引両替商の振り手形で支払っていたようです。北前船というと千両箱を積んで帰船したのかと考えていましたがそうではなかったようです。

銭屋五兵衛の石灯籠

庭に、安政期に銭屋五兵衛から贈られたという風変わりな石灯籠があります。

江戸期、加賀・宮腰には加賀の豪商銭屋五兵衛が館を構えていました。
ですが、ちょうどこの頃、銭屋五兵衛は有名な「河北潟疑獄事件」で捕らえられ獄死します。

銭屋五兵衛に対する世間の関心は今もって高いです。
当資料館にも、抜け荷や河北潟疑獄事件の真相を追う郷土史研究家の方が大勢来てくださいました。
綿屋もどうやら抜け荷には深く関わっていたようで、私も研究に取り組みたいと考えています。


庭の片隅で静かに佇むこの石灯籠を見るたびに、重い何かが心に刺さるような気がします。
悲劇を知っているからだろうと思いますが、銭屋五兵衛の影をこの石灯籠に感じるのです。

この地中にはきっと何かある。
そんな気がする石灯籠です。

銭屋五兵衛から贈られたと伝わる石灯籠。地面に直接埋められた石灯籠は珍しいそう。
他の三面には三申が彫り込まれています。
(放生津北前船資料館・庭)

岡田楊斎

これは、加賀藩士・岡田楊斎の手による臥龍梅が描かれた幕。
安政三年、楊斎七十二歳の作品です。
太陽を背景にしたものと、月を背景にしたものとがありますが、
どちらも、そのたおやかな枝と実際に対峙しているような、そんな感覚に陥ります。

陰陽道 の慣例通り、五枚の布には風貫きが七個所開けられ、
紐通しには「叶」や「籠目」が糸で縫い付けられています。
これらの文字や模様は、魔よけの意味があるそうです。

この幕は、どこかで人を招いてお披露目しながら描いてもらったのか、諸事記録が残っています。
岡田楊斎に二人の助手が付き、大布の下に紙を敷き、数本の大筆とたくさんの墨汁を準備して描いたようです。
描き終えた後には料理が出されたようで、
その金額から大勢の人がその場にいたらしいことが分かります。
酒宴を催して、皆でこの見事な臥龍梅を愛でたのかもしれません。

「岡田楊斎先生之幕一条之事」
(石川県立歴史博物館/大鋸コレクション宮林文書)
「岡田楊斎先生之幕一条之事 覚」
(石川県立歴史博物館/大鋸コレクション宮林文書)

天保九年 御巡見と長者丸

天保9年 御巡見御上使御通行壱巻
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
御巡見の際の造作図面
(石川県立歴史博物館/大鋸コレクション宮林文書)
御巡見の際の造作・門 絵図
(石川県立歴史博物館/大鋸コレクション宮林文書)

御巡見とは、幕府が諸国の様子を見て巡ることを言い、諸国を監視、調査する意味がありました。
天保8年(1837年)に徳川家慶が12代将軍となり、翌9年に巡見上使を加賀、越中、越後地方の沿岸に派遣します。
この一行を迎える役目を担うこととなった放生津綿屋は、邸宅の造作を行います。
当時は綿屋彦九郎の屋敷は現在の三日曽根ではなく、もう少し内川寄りの「新町」にあり、町家造りでした。改築した門の絵図が残っており、門に面した通りをわずかに想像することができます。

記録には、御休息所として使用された部屋の設えなどが書き残されています。
輸入品でしょうか、「敷物 ジウタン」や「アンビラ」の文字も。
「アンビラ」とは何か。
臺灣總督府民政局殖産部報文』に次の様な記述が見られます。

「学名:❝Pandanus.sp❞ 熱帯地方著名ナ植物ノ一二シテ南諸島亦多ク自生ス… 其効用頗ル廣シ乃チ葉ハ席ヲ織ルベシ…太平洋諸島及印度諸邦ニテハ 『アンビラ』呉座の如キモノヲ製出シテ一般ノ敷物二用ユ…」

熱帯植物の葉で編んだ呉座の様な敷物であったと思われ、当時、琉球から長崎に輸入されたものではないかと思われます。

また、食事の品書きの記録があり、精進料理とそうでないもの2種類が準備されています。

ところで、大変興味深いことが分かってきました。
何故「天保九年」に御巡見があったのか。
当時の情勢をみれば、その理由がひとつ、思い当たります。
抜け荷」です。
つまり「密輸」ですが、幕府は以前から、薩摩藩と北陸、新潟の廻船商が手を結び、北海道の昆布や干アワビ、干ナマコなどの俵物を琉球経由で中国に密輸しているという情報を得て摘発に乗り出していました。
天保六、七年の摘発では、能登~新潟の湊町で越中、新潟の商人ら複数が捕縛されています。

この「天保九年の御巡見」は4月。
同時期に、越中から一隻の船が出航しています。
北前船「長者丸」です。
長者丸は天保9年4月23日に東岩瀬を大阪に向けて出航。大阪を出た後の足跡は、新潟、松前、箱館…
ですが、その後は北前船の通常ルート「西廻り」とは別の航路へと出航します。「東廻り」です。

東廻り航路は潮の流れに逆らって進まなければいけないこと、避難できる湊が少ないことなどから西廻り航路と比べて危険とされていました。では、なぜ敢えて「東廻り」を選んで出航したのか。
それは薩摩藩へ「昆布」を運ぶ「抜け荷」だったからです。

越中に御巡見があるとの情報を得た「長者丸」が、警戒して日本海を避けて東廻りを選んだのか、
それとも「東廻り」は当初の計画通りだったのかは資料の精査が必要ですが、
その長者丸は11月下旬、大しけに遭い、長期にわたり太平洋上を漂流します。
異国船に救助されたものの、この間に船員数名を失い、船は焼き払われ、ハワイーカムチャッカー択捉ーと送られて、天保14年9月に松前に戻ります。実に5年間もの長期にわたる大漂流でした。


綿屋彦九郎は、文政期に加賀の銭屋五兵衛と同様、薩摩藩へ北海道の昆布輸送をするなどの抜け荷に関わっていたと指摘されています。破綻寸前であった薩摩藩の巧みな財政改革に協力した北前船の「抜け荷」。
この「抜け荷」から生み出された利益が、薩摩藩の倒幕運動のエネルギーへと変換したとも言われています。

放生津高札場(こうさつば)

高札場とは、幕府や領主が決めた掟(おきて)などの決まり事が書かれた木札(高札)を掲げた場所です。
民衆に広く早く知らしめる意図があり、人通りの多い往来に、それは設けられていました。

よく時代劇に高く掲げられた木札を、民衆が押し合いへし合いで覗き込んでいるシーンがあります。放生津にもそんな光景が繰り広げられていたのかと想像力が膨らみます。

放生津の高札場はいったい何処にあったのか。

天保九年に放生津に御巡見があり、その巡見上使の御通行図の一つにそれは描かれていました。

放生津は海岸に沿って東西に長く町が形成され、海に沿うように開かれた通りは「浜往来」と呼ばれていました。「浜往来」は、海から内川へと入る湊口の手前でいったん内川を渡り内陸の道を通ることになります。湊口には江戸時代後期以前は橋が架かっていなかったのです。

現在、湊口に掛けられた「湊橋(みなとばし)」は、旧名を「おたすけ橋」といい、文政4年に掛けられたものです。それまでは対岸へは船で渡っていたそうですが、その年の春の放生津大火の際、橋がないために逃げることが出来ず多くの犠牲者を出したため、同年秋に板橋が掛けられました。この橋を「おたすけ橋」と呼び、明治に入り「湊橋」と改称されたということです。

「浜往来」はこの「湊橋」が掛けられる以前の街道を指します。

現在、内川には色々な表情を持つ12の橋が掛けられていますが、湊口の東側に架けられた「中の橋」を海側に渡ったところに、放生津高札場はあったようです。

「中の橋」は、江戸時代前期に架けられました。

「巡見上使御通行見取絵図」
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
「巡見上使御通行見取絵図」
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)

ふだん何気なく歩いていた場所ですが、そこに高札場が設けられていたと考えると、新しく高札が掲げられるたびに人々が「なになに?」と覗き込んだり、批判したり、議論したりする人々が頭に浮かび、生き生きとした町の賑わいが聞こえてくるような気がします。

大門往来、小杉往来の文字が見えます。
旧北陸道へはこの道を往ったことがわかります。

アズマダチ

越中加賀藩領内でよく目にするアズマダチ
傾斜の緩やかさは江戸時代の加賀藩支配を物語る。
明治以降はより高さを強調したアズマダチが現れた。

越中、特に庄川流域などの在郷の家によく見られる「アズマダチ」と言われる建築様式。
現在は瓦葺ですが、明治後期までは板葺きに石を載せていました。
今でも瓦葺の下に板葺きの名残があります。

加賀藩は町人の贅沢を禁じていたため、立派な門を構えることは許されませんでした。
もしあるとしたらそれは明治以降に建設されたものでしょう。
綿屋は明治初頭、加賀藩のお姫様を迎えるにあたり大規模な造作が行われたと伝えられていますが、
塀は板塀の粗末なものでした。
現在の檜皮葺の塀は大正時代に建て替えられたものです。

■建物に見られる地域性

私の知るつくば市の豪農の家々たちはどれも大名屋敷の様な厚みのある門を構えています。
門の造り一つをとってみても地域性があるのは非常に興味深いです。

発見された図面
(放生津北前船資料館蔵)
現在より建物が広がっていたことがわかる。
商売をやめた後、建物部分をコンパクトにしたのだろうか。
門のデザインは複数案あった
(放生津北前船資料館蔵)
本来玄関幕であるが広間に掛けてみました。
安政3年 加賀藩士岡田楊斎72歳の時に描いた陣幕「臥龍梅・日」
(放生津北前船資料館蔵)
幕末から明治時代にかけて放生津で刻んだ歴史の数々
(放生津北前船資料館蔵/令和5年9月展示)

神仏分離令と神道教導職

明治四年の廃藩置県まで、維新政府は祭政一致の方針をつらぬくため、明治元年閏四月神祇官を設置し、全国の神社、神主等はすべて神祇(ぎ)官の指揮を受けることにした。政府はまた同年三月、神仏分離の令を出し、これがきっかけとなって、全国に廃仏毀(き)釈の運動が起こり、仏教界に大きな打撃を与えた。(文部科学省 学制百年史より)

綿屋の庭のほぼ中央に、丸い大きな敷石があります。
これは、神仏分離令の際の寺社整理による石灯籠の基礎石ではないかと言われています。

神仏分離令による廃寺の石灯籠の基礎か
(放生津北前船資料館)

放生津湊口正面に鎮座する西宮神社は、漁業守護神を祀る神社であり、海上で執り行う奇祭「ボンボコ祭」で知られていますが、御不動尊も秘仏として祀っていました。これはもともと神宮寺醍醐派三宝院末眞生山海運寺の御本尊とのこと。
このように、神社と寺は混ざり合い、その習俗はこの地にごく自然に根付いていましたが、明治新政府は神道の国教化政策の為、神社から仏教的なものを排除していきました。そして、「別当」や「社僧」といった立場にあるものは「復職」し、神社として勤めるよう命令が下されます。西宮神社も神社であることを明確にする必要があったことを示す明治2年の文書があります。


一方、祭祀一致の政策を行う神祇省教部省と名を変え、地方には「神道事務局」が置かれます。
そして「教導職」という指導役をおき、市民への啓蒙活動が行われました。

この「教導職」は無給の官吏で、教導職総裁には有栖川宮幟仁親王が就任されています。
主に神官が任命されましたが、越中国第15大区の「教導職」に13代彦九郎が任命されています。

加賀大聖寺藩14代(最後の)藩主前田利鬯より
「教導職」を拝命したことがわかる記録
(放生津北前船資料館)


「教導職」について記された箱書きを見付けました。
この記録により、13代彦九郎は「教導職」の任を、加賀大聖寺藩主14代で最後の藩主・前田利鬯(まえだ としか)公より拝命したことが分かります。

前田従四位利鬯公ハ旧大聖寺藩候ナリ
同候ヨリ予
神道教職拝命ノ頃之ヲ頂戴ス

利鬯公は神道の教正タリ


※教正…教部省に置かれた教導職の最上位



その「教導」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

その内容は、国家・天皇への恭順や、敬神思想が中心でしたが、生活上の倫理、国際化、文明開化、権利と義務など、つまり「新しい世の中」についての講義でした。
明治政府には仏教排除の意図はありませんでしたが、日本古来の神道に立ち還ろうとする学派の考えにより「廃仏毀釈」という運動が起こります。富山藩内では一派一寺の「合寺」が行われて大変な混乱に発展しています。

新政府の当初の意図に反し、神仏分離令は、奈良の古刹でさえも廃寺に追い込み、修験や各地の習俗を破壊しました。
しかし、仏教界の大反発に加え神道内部の争いもあり、結局、明治10年に教部省は廃止となります。

石川県は明治9年に「神仏分離令」を解除。
その年9月、13代は石川県下富山神道事務分局に「教導職」の辞表を提出しています。
加賀藩内は富山藩と異なり、あまり廃仏毀釈の運動は行われなかったようです。
神道とも仏道ともとらえきれない、その土地固有の「祈り」があるということを、人々は自然に理解していたものと思われます。

明清楽と茶室

■演奏会を催しました。(令和5年9月)

幕末から明治中期にかけて全国的に流行した清楽
それは煎茶を味わいながら仲間と輪になって奏でられ、そして中国語の発音で歌われていました。
日清戦争を機に衰退したと言われていますが、それも大切な歴史の一幕です。
しかも高岡に日本海側で唯一、清楽器を制作し教授される方がおられ、
高岡の地で、明清楽が大きな盛り上がりを見せていたことが分かっています。
そんな先人らの歴史を失ってはいけないと、活動を続けている方々がいらっしゃいます。
歴史とは、こういった方々の熱意と強烈な使命感で守られているのだとつくづく思います。

【演奏者紹介】(画面左から)

上田  昇子  ・・・ 月琴 胡琴 携琴
小島  奈緒美 ・・・ 月琴 月琴(明楽)阮咸
稲見  恵七  ・・・ 月琴 唐琵琶
鳥谷部 輝彦  ・・・ 笛子

私は「九連環(きゅうれんかん)」という歌がしばらく頭から離れませんでした。
車座になって茶をすすりながら親しい友人らと歌うひととき。
当時夢中になっていたのはまだ若い13代彦九郎だと思われますが
彼がこの集まりを大変心待ちにしていたことがわかる詩が残っています。
「茶事」と書かれた13代自身の書籍箱の裏に、それは書き留められています。

13代彦九郎の書籍箱「茶事」の箱裏に書かれた漢詩
(放生津北前船資料館蔵)


友有り
傾然として戸外へ迎え
共に茶事を談じ、幽情を慰む
池亭、疎簾の裏へ鼎(かなえ)を移し
水聲と枩声とを静かに聴く
窓外数株老竜の如く
清陰茗(めい)を烹(に)て心胸を滌(すす)ぐ
琴に非ず瑟にも非ず無調の曲
孰れか是茶声孰れか是松

茶室と題して    順露庵主人放洲

【口語訳】

友が来た!
待ちきれず外へと迎えに出る。
一緒に茶について語ったり楽しいひととき。
御簾のかかった茶室に場所を移し
静かに松が風にそよぐ音や池の水音を聴く。
窓の外には幾株かの木がまるで老竜のように立っている。
涼やかな室内で茶を烹ていると、心が清められていく。
琴でもなく瑟でもなく、言ってみれば無調の調べ
これはいったい…
茶釜が鳴る音か、風に吹かれた松の音か…

茶室と題して    順露庵※1主人放洲※2

※1 順露庵は放生津綿屋の庭にあった茶室の庵名
※2 放州は13代彦九郎の号

明清楽は煎茶とともに流行しました。
湯を沸かし茶を煮る音、池の水音、風が渡る音…、そして清楽器の音。
色々な音色がこの詩に響き渡っています。


そして、「琴でもなく瑟でもなく…」と、
清楽器の音色をどのように表現しようかと思いめぐらせている様子が伝わってきます。
清楽に夢中だった様子がとてもよく分かります。

13代彦九郎(放生津北前船資料館蔵)
胡琴(放生津北前船資料館蔵)
「月宮殿」の楽譜(放生津北前船資料館蔵)


私は前日のリハーサルからずっと演奏家の方々と過ごしました。
演奏家お一人お一人に意志の強さを感じ、私もとても影響を受けました。
地域の歴史を紐解く中で出逢ったご縁を、今後も大切にしていきたいと思います。
とても貴重な演奏をありがとうございました。

そして「明清楽」に興味を抱き演奏会にご来場くださった皆様、ありがとうございました。

コレラ

■コレラとの闘い 

明治12年(1879年)、コレラが全国的に大流行。
金沢、新湊でも多くの人が命を落としました。
初めて石川県会が開設されることとなり金沢で暮らしていた13代彦九郎は、
毎日のように新湊の番頭・清平と電報やハガキ、書簡のやりとりをしています。


金沢では近所で暮らす高峰譲吉の父・精一医師を毎朝訪ね、対処法、薬の情報などを入手し、
それをまた新湊に幸便で伝えています。
そして清平から新湊の状況を細かく聞き、対応を指示しています。

北前船の水主らは情報の第一線にいました。
港町では色々な情報が行き交っていました。
東京はこんな状況だ、下関は今こんな状況らしい…と。

船員からの情報が刻々と入ります。
その水主らからもたらされる情報により、コレラの流行が徐々に北陸に近づいていることを知るのですが、
また或ることにも気付き始めていました。
「病気は人とモノによって運ばれる」


綿屋彦九郎は消毒薬を買い集め、人はもちろん、モノの消毒にも気を遣うよう指示をします。
しかしついに石川縣で感染者が認められ、
あっという間に北陸全域にコレラは広がっていくのでした。

東京などからも入手した消毒薬ですが、見慣れないモノに地域の人々の警戒心は強く、
これは毒薬かもしれないぞ、と言う者もいたようです。
コロナウィルスのパンデミックを体験した私達ですが、
得体の知れないものを目の前にした時の人間の行動は、
幾時代を経ても全く変わりません。

毎日のように金沢と新湊間でやりとりをした、
(放生津北前船資料館蔵)

新聞縦覧所

■新聞縦覧所開設
 福祉の殖うる所は知力を培養するの他なかるべし」

コレラで社会が大混乱に陥っている中、迷信や加持祈祷に頼る新湊の人々の状況を知り、困難な状況への対応力として知力の養成が必要と感じ、綿屋彦九郎は新聞縦覧所の開設を決意します。

地方における新聞縦覧所については、
磯部敦著『開花新聞』『石川新聞』の出版史的考察ー明治初期地方紙出版の一モデル
こちらに、綿屋の新聞縦覧所についての記載があります。
私は大変興味深く読ませていただきました。ご興味のある方はぜひご一読ください。

明治13年1月30日。新聞縦覧所開設ノ趣意
(石川県立歴史博物館所蔵/「大鋸コレクション宮林文書」)
新聞等目録(石川県立歴史博物館所蔵/「大鋸コレクション宮林文書」)

【新聞目録】
 東京日日新聞
 朝野新聞
 大坂新報
 中外物價(価)新報
 石川新聞
 工業新報
 東京商法會議所要件録
 團團珍聞(まるまるちんぶん)
 東京経済雑誌
 交詢社雑報
 勧農局月報
 農事月報
 など

朝野新聞 成島柳北

成島柳北
(放生津北前船資料館蔵)
成島柳北写真裏
(放生津北前船資料館蔵)

これは成島柳北(なるしま りゅうほく/1837‐1884)の名刺。当時は台紙に自分の写真を貼ったものを作成し、交換し合っていました。
成島柳北の「柳」は東京柳橋からつけたとか。
江戸きっての花街「柳橋」で暮らし、かなり豪快な人物であったようです。

成島柳北と綿屋彦九郎との接点はまだ分かっていませんが、
友人のジャーナリスト・海内果を通じて、或いは商法講習所設立の際、また或いは東本願寺の大陸調査隊安田善次郎ネットワークなどなどが考えられます。
人間の相関関係を探っていると、バラバラだったものが一本の線で結びつくことがよくあります。
世間は狭い、というより、社会は人と人との結びつきで成り立っている、と言えるのでしょう。


ホルトルマン

ホルトルマン博士
(放生津北前船資料館蔵)
ホルトルマンのメッセージ
(放生津北前船資料館蔵)

■加賀藩の近代医学への道

文久二年(1862年)種痘所設立
慶應三年(1867年)第14代藩主慶寧公により養生所が設立
明治三年(1870年)西洋式病院と医学教育のための医学館を設立
明治四年(1871年)オランダ人軍医フロイスが医学館に赴任。廃藩置県。
明治八年(1875年)オランダ人医師ホルトルマン、フロイスの後任として着任
明治九年(1876年)金澤医学館を医学教育と医療に分離
          医療部門を石川県金沢病院とし、富山病院、福井病院の分院を置くとした
明治12年(1879年)金澤大手町に金沢病院新築落成
明治13年(1880年)ホルトルマン金沢を去る
                   
オランダ人医師ホルトルマンは、石川県がアムステルダムの新聞に出した求人広告に応募し、
金澤に着任。
廃藩置県の混乱の中、金沢病院、富山病院の新築にあたっては寄付を集める活動を自らも行い、
大変意欲的にその任務に取り組んだと伝えられています。
金澤在任中は娘三人を亡くすなど、つらい経験もされているようです。

商法講習所


『わが国において商業教育の端緒を開いたのは、明治七年四月大蔵省銀行課中に設けられた銀行学局であった。次いで八年八月には森有礼が商法講習所を創設し、洋式商業教育を始めた。これは十八年に文部省に移管されて東京高等商業学校となり、現在の一橋大学の前身となったのである』(文部科学省ホームページ 「初期の実業教育」より)

その後、明治11年神戸に、明治13年に岡山に「商法講習所」が設立されています。
多くが商業教育の必要性を感じた地元有志によって設立されましたが、
岡山商法講習所が全国三番目に公立で設立されたのは、当時大きな話題となったそうです。


石川県(当時越中は石川県)には明治14年4月に、
地元有志11名によって「石川縣商法學所」が設立されています。
経済学、商用物理学、商用地理学、算術、簿記法、諸證文受取書の解説などの他に、
修身学、作文、運筆、書取りなどの授業内容も見られますが、
東京商法講習所には取り入れられた「英語」の講義はなかったようです。
外国人教授を雇い入れることは難しかったのかもしれません。


模擬授業も行われた。
「社長は日々會社に出勤すべし」が面白い。
(石川県立歴史博物館所蔵/「大鋸コレクション宮林文書」)
商法講習所開設之大意
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
石川県の有志11名で設立
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
名称は「石川縣商法學所」
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
「商法講習所維持方起案」
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
「商法講習所維持方起案」
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)

入学は本科生(12歳以上17歳未満)100名、速成生(17歳以上)50名。
「実際演習」は学んだことを実際に活用する授業で、物品問屋から小売店での売買取引などを模擬形式で行ったそうです。

野戦鋳造


綿屋の北前船船主としての顔は、幕末から明治前期のほんの一時期にすぎません。
加賀藩の御用商人という位置付けの中で海運を担ううちに、北海道交易という市場の開拓がなされ、
それが明治になり「北前船経営」へと変わったのでしょう。
ほんとうの役割は、「加賀藩の政策を町人の立場で支え、奉仕する」ことであっただろうと考えます。

嘉永七寅春中青銅野戦鋳造覚
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)

「青銅野戦一挺の目方 凡二〇貫迄の分 七挺宛吹申時ノカネ割」

これは銅と錫の微妙な割合を計算しているメモ書きです。


幕末、加賀藩は銃砲の鋳造をしています。
反射炉を持たなかった加賀藩ですが、たたらと甑(こしき)で鋳造しました。
後に高岡でも鋳造が始まります。
これは、加賀藩領内にそれが可能な資本と技術があったことの証明です。


他の資料によりますと、卯辰山に作られた最初の鋳造所では内部情報は極秘とされています。
ですからこれは、綿屋が内部の人間であったことを示す資料ではないかと考えられます。
当時、銅の産出量は日本が世界一位であり、銅座は大阪に設けられていました。
銅と錫の入手と輸送を担っていたのではないか、そう考えることができる資料です。

明治紀念標

明治記念標之図
(放生津北前船資料館蔵)

明治紀念標は、金沢の兼六園、小立野口から入ってすぐのところに立っています。西南戦争で戦没した、石川県出身の政府軍兵士を慰霊するために建てられました。高岡の鋳物師が製作し、明治13年(1880年)10月に、竣工式が行われていますが、西洋式銅像としては日本初ということです。

像は日本武尊像で、自然石を積んだと言われる台座の前には有栖川宮熾仁親王による「明治紀念之標」の文字が彫られています。
有栖川宮熾仁親王は、有栖川宮家に嫁がれた前田慰子姫の義理の兄にあたります。

さて、夭折の詩人・中原中也がこの明治紀念標の思い出を残しています。

『兼六公園で驚いたのは、日本武尊の銅像であつた。そいつを僕はすつかり忘れてゐた。然し、それが朝の空に聳り立つてゐるのを見付けた瞬間、愕然と思ひ出した。それからその銅像の下に行つて休んだが、涙が出て来て仕方がなかつた』(出典/中原中也「金沢の思ひ出」)

早熟で反抗心が強く、家族には心配をかけっぱなしだった中也。
幼い頃の幸せな日々を思い出したのでしょうか。


そういえば、14代彦九郎にもこんなものが残っています。

14代彦九郎 2歳頃か
2歳とすれば明治23年頃
(放生津北前船資料館蔵)
「宮林彦九郎 好年ノ頃之ヲ写ス
(放生津北前船資料館蔵)

14代彦九郎は父と離れて金沢で母と姉、妹と暮らしていましたが、5歳の時に新湊の父(13代)が亡くなります。
その後は5歳で嫡子として新湊にやってきて、知らない大人たちの圧力の中で育ちます。
14代にとっても、金沢で暮らしていた幼い頃がいちばん幸せに感じられていたのかもしれません。

そして、紀念標はというと、多くの人が拝観をしていたようで、当時、金沢の13代彦九郎から新湊の清平に書き送ったハガキにこのように書いてあります。

『紀念標□像本日事漸く□知ノ由昨日之咄二候処、事二混雑ノ様子也 余は新聞紙ニテ石川北陸承知ノ通リニ候』 

『紀念標はようやく本日一般公開。昨日もこの話になった。混雑をしているようだ。私は石川、北陸両新聞でこの記事を確認した』

金沢の13代彦九郎と新湊の番頭・清平は
毎日ハガキのやりとりをした
(放生津北前船資料館蔵)
金沢の様子を伝える内容
(放生津北前船資料館蔵)


銅像というものをまだ見慣れなかった人々は、この像を「公園の金仏さん」と呼んだそうです。

岩崎弥太郎との闘い

郵便汽船三菱会社誘致の背景

越中風帆船会社

共同運輸へ!海運史に残る壮絶な闘い

北陸通船会社

北陸通船会社の印(放生津北前船資料館蔵)
北陸通船結社許可の知らせ(放生津北前船資料館蔵)

郵便汽船三菱会社に対抗するため、渋沢栄一氏の策により共同運輸に吸収された越中風帆船会社は明治16年(1883年)に解散。
日本海の海運は自分たちの手で担いたいと考えていた伏木・放生津・岩瀬の有志たちは別途、明治14年(1881年)北陸通船会社を設立しました。
しかし激しい競争の中で際限のない値下げ合戦をせざるを得ず、北陸通船会社はやがて大きな負債を抱えて倒産。
長く日本海の流通を担ってきた日本海海域の廻船商の多くが前途茫洋とした時代へと突入し、新たな方法を探っていくこととなりました。
そして、19世紀初頭から廻船業を営んだ綿屋の歴史も、明治20年に完全にその幕を下ろすこととなります。

放生津湖築港建言書

■近代港建設の夢

「明治22年 放生津湖築港二付建言書」放生津有志ら当局大臣へ提出。
新湊新港築港は、現代になりその必要性が叫ばれたわけではありませんでした。


船も全て売り払い、明治20年に海運業から完全撤退した放生津綿屋ですが、放生津を近代港にするという夢を持ち続け、地元の仲間と話し合い、行動していたことが分かってきました。

北日本新聞「新聞に見る90年」(1974)明治29年の「寄書」に
内容が詳細に記されています。
石川県立歴史博物館所蔵/「大鋸コレクション宮林文書」
「新湊町及び放生津湖縮図」
 石川県立歴史博物館所蔵/「大鋸コレクション宮林文書」
「伏木港縮図」
 石川県立歴史博物館所蔵/「大鋸コレクション宮林文書」

藤井能三はこれより先の明治11年頃、政府に「伏木築港」を働き掛けています。
どのように建議していたのかは資料が見当たらず定かではありませんが、
時の大蔵卿・大隈重信が越中を訪れた際、伏木港を見学されたのはこういったいきさつがあったようです。

庄川と合流する小矢部川下流域は、庄川の氾濫によって運び込まれる土砂に長年悩まされていました。
港の深さが足りなくなるため、汽船の係留地も沖合にあったことが上の絵図からも分かります。

伏木港については明治24年に藤井能三によって「伏木築港論」が発表されています。

明治22年  放生津有志「放生津湖築港二付建言書」
同 24年  藤井能三 「伏木築港論」

この頃に「新港築港論」が盛んになった背景にはいったい何があったのでしょうか。

庄川の治水については江戸前期から様々な普請がなされてきましたが、近代に入り、明治19年に本格的に国家的事業として計画されるようになりました。
河川改修事業については当然、地元識者にも伝えられたでしょう。
それぞれの地域での問題点や展望、希望…それらをこの事業と結び付け、
地元の近代化を図ろうとする象徴的な運動がこれらの「新港築港論」だったのではないか。

「放生津湖築港二付建言書一件」は中身の所在は不明ですが、
北日本新聞の「新聞に見る90年/1974」明治29年の「寄書」にその詳細を見ることができます。
有志に名を連ねているのは7名。綿屋彦九郎他6名の氏名は記載されておらず残念ではありますが、
しかし、地域の人々で協力して運動していたことが分かります。
その7名の背後には数十名、数百名の理解者がいたに違いありません。
この薄い和紙の包封に、地域の人々の想いが滲み出ているように見えてなりません。

富山は電気が安い⁈の真相

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その後、

北海電化工業(株)→電気化学工業→電化工→日本重化学工業(株)
北海曹達(株)
東亜合成化学工業(株)
伏木製紙(株)→伏木板紙(株)→中越パルプ工業(株)
北海工業(株)→王子製紙→十条製紙
伏木木材工業所→樺太木材紙料(株)→関東通信(株)→三越金属工業(株)

伏木臨海工場地帯の歴史の幕が上がると同時に「電力が安い富山」が定着。
続々と工場進出が続きました。


■そして渋沢栄一氏来場

大正7年6月6日。「澁澤男爵同令夫人北陸地方漫遊の途次来場の際為記念撮影」於電氣製鐵株式会社伏木工場
最前列正面に渋沢栄一と夫人。2列目右から2人目14代彦九郎
(放生津北前船資料館蔵)

富山湾の漁場

元禄10年と記載のある大きな漁場図があります。
これは何を目的とした絵図面でしょうか。
かわいらしいアイコンは定置網の設置場所を示していると思われます。
漁業についてはまだ調査ができていないこともあり、不明な点が多いです。

富山湾の漁場図(放生津北前船資料館蔵)

屋寿姫君様御越諸事記

明治六年「屋寿姫君様御越諸事記」
(放生津北前船資料館蔵)

■屋寿姫君様御越諸事記(明治六年四月十四日)

屋寿姫(やすひめ)とは慰子姫(やすこひめ)のことだろうと思われます。
昔は漢字の当て字をよく用いていました。

これは慰子姫の越中での動向を垣間見ることが出来る資料です。
お食事やお買い物のリスト、放生津湖に遊ばれたことなどが書き留められています。
書き留めた者は「静好室」。これが未だに誰なのか判然としません。
当初、慰子姫の女官かとも考えましたが、「静好室」と記されたものが当家に何点か確認されています。
風呂敷であったり、メモ書きであったり…
ですから、恐らくは綿屋内部の者、11代妻か13代妻かどちらかの女性と考えられます。

「屋寿姫君様御越諸事記」裏面
(放生津北前船資料館蔵)
風呂敷に縫い付けられた名前
(放生津北前船資料館蔵)
蓮如上人筆跡掛軸の箱書
(放生津北前船資料館蔵)

女官・瑶枝の筆跡と料紙

前田慰子姫の御付の女性が「瑶枝」であったことは、
「屋寿姫君様御越諸事記」でも分かっています。
その「瑶枝」との書簡が残っていますが、たいへん美しい文字を書かれた方ですので
是非、その筆跡を残したいと思います。

料紙も非常に厚みがあり艶やかで上質です。
金沢と越中・砺波にまたがる医王山麓の二俣では、良質な水と楮で古くから上質な料紙が漉かれおり、この料紙を「加賀奉書」といい、将軍家へ献上もされていたとのことです。
写真の料紙が「加賀奉書」かどうかは不明ですが、極めて上質なものであることは触れて分かりました。

女官瑶枝の美しい筆跡
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)
(石川県立歴史博物館所蔵/大鋸コレクション宮林文書)

この「書添」にある「慰姫様御写志ん(お写しん)」とはこちらのことかと思われます。

慰姫様お写しん
(放生津北前船資料館蔵)

瑶枝の書簡の「書添」には、
「この度、慰姫様がお写真を撮り遊ばされたので、皆さまでぜひご覧ください」と書かれています。
すらりと細身の慰子姫の御写真はブログの方に載せております。

すらりと気品のある慰子姫(有栖川宮威仁親王妃)

五歳の子供たち

分かっている範囲での話ですが、11代彦九郎の子供は長男(12代)、長女共に5歳で亡くなっており、
13代の最初の子も5歳で亡くなっています。
昔はよく子供が亡くなったと言われますが、背景にはある「原因」もあったようです。

5歳で夭逝した12代の像
宗良親王像の隣におります
(富山県射水市本町3丁目 綿屋門前)
5歳で夭逝した12代の肖像
(放生津北前船資料館蔵)
5歳で夭逝した13代の長男・友吉
(放生津北前船資料館蔵)

乳母によって育てられた子供たちは、
乳母の胸元まで塗られていた白粉(おしろい)も口に含んでしまった。
昔、おしろいには鉛が含まれ、鉛中毒を起こし亡くなる例が多々あったようです。
明治10年ごろから鉛中毒を指摘する声が上がっていましたが、
明治20年になって人気歌舞伎役者が鉛中毒で倒れたことで広く世間に認識されたようです。
この子供らの死の原因が鉛中毒によるものであったかどうかは分かりませんが、
そういった歴史があったことを知っておくのは必要だと思います。


この幼い12代目が亡くなった悲しみは深く、
子供らが短い間でもこの世に生まれてきた意味を問い続け、
11代彦九郎とその妻は生前から諱(いみな)を名乗り、仏教に深く帰依しました。

閑雲禅師

これは12代彦九郎(幼名 作太郎)5歳の筆。
元旦に、父母らが「好きに書いてごらん」と筆を持たせて描いた富士の画です。
作太郎が亡くなった後、思い出のこの絵を表装する際に、
「讃」を高岡・瑞龍寺18世住職 閑雲(1778~1859)に依頼し、
これを綿家の永久家宝とするようにと後世に伝えています。

12代彦九郎(幼名 作太郎)5歳の富士の画
(放生津北前船資料館蔵)
瑞龍寺 18世 住職 閑雲の讃
(放生津北前船資料館蔵)

閑雲禅師(1778~1859)は、能登鳳至郡今村氏の二男で、幼くして能登総持寺で得度したようです。
漢詩や書をよくし、京都の寺を来歴する間、頼山陽などと交流しその後、前田家の要請で瑞龍寺18代住職となりました。
晩年は谷昌寺(射水市)で過ごし、多くの文人らに漢詩や書の影響を与えています。

綿屋という屋号

古くからの家紋は綿の実紋。現在は女紋としている。家紋が染め抜かれた大判風呂敷
(放生津北前船資料館蔵)

■綿屋の屋号の始まりについては二説

一つは綿の取引に由来する説。
もう一つは能登の和田野から落ちのびてきたその記憶を残すため、「わたの」から綿屋とつけたという説。
当然「綿の取引説」だろうと私のなかではつい最近まで一択でした。しかし、先日福光中央図書館で砺波の歴史を調べていると、「屋号は出身地からつける場合が多かった」という記載があり、今では「和田野説」に傾倒しています。いつか能登の和田野を訪れてみようと思っています。

玉手箱

■開けてびっくり玉手箱

これを見た瞬間に、これだけで全ての物語が語ることができると感じた。
(放生津北前船資料館蔵)

昔からずっと神棚のように家の棟高くに置かれていた箱。下から眺めると真っ黒で、決して触れてはいけないもののように感じていました。
意を決してあの箱を下ろそうと決め、積もったほこりを水拭きし、きれいにしてどきどきしながら開けました。
中から出てきたものは、「わたや」の暖簾と、紙入れ(財布)三つ、木綿のきんちゃく袋。そしてその下には…

麻袋
そろばん
間縄(けんなわ)


なぜこの三つを残そうと思ったのか、なぜ残さなければならないと思ったのか。

家の歴史を語るとともに、その時代を語るものであったからではないだろうか、と考えるのです。

放生津の前には砺波に住んでいたことが分かっています。
漁具や網を作る藁や藁加工品を放生津に売りに来ていたと伝えられています。時は天正ころ。

この時代は日本の歴史もある大転換を迎えます。綿の登場です。
それまでは衣服も麻で冬には麻衣を何枚も重ねて着ていたといいます。

綿が日本で生産されるようになり麻の生産は衰退します。綿はやわらかく保温性も通気性もあり一気に麻から綿へ需要は移っていきました。

当時は米俵も藁、漁具も藁、履物も藁…
そして麻…この麻袋は、ある時代の麻の需要をあらわしています。
そして綿の登場…

時代の変遷をそのまま綿屋は伝えてきたような気がします。

ちなみに測量の紐は細く割いた麻を束ねてその外側を細い麻糸でぐるぐると巻いています。

たくさん破けてたくさん繕ってあります。
(放生津北前船資料館蔵)
測量の際に用いたと思われる紐、間縄(けんなわ)
(放生津北前船資料館蔵)

漢詩は共通言語

漢詩であふれています。千坂高雅の詩も。
(放生津北前船資料館蔵)

■漢詩交流が盛んだった放生津

中国の公吏・王治本や朝鮮の書家・李斗璜など、外国の詩人なども放生津を訪れ漢詩を残しています。
共通言語は「漢詩」。彼らは「漢詩」で意思の疎通を図っていたのだそうです。
その他、国内の多くの漢学者、儒学者、書家、絵師が放生津を訪れ作品を残しています。
時に彼らは放生津湖(海龍湖)で船遊びをしました。
前田慰子さんもなさった記録があります。
船を二艘並べて浮かべ、一艘には人が乗り、もう一艘には酒と肴を乗せて、また漁師さんに魚をとってもらい…
なんという贅沢な遊びでしょう。そして彼らはその風景を詩に残しました。
豊後の漢学者・劉石秋(りゅうせきしゅう)は、放生津湖の風光をまるで水に煙る琵琶湖のように美しいと詩を書き残しています。

豊後の漢学者・劉石秋(りゅうせきしゅう)の詩
(放生津北前船資料館蔵)

はじめての電灯

明治36年。高岡の菅野伝右衛門が高岡電灯会社を設立。
そして、翌年明治37年一月元旦に、高岡に初めての電灯が灯りました。電気の灯りです。

新湊には、明治44年についに初めての電灯が灯ります。
三日曽根の放生津綿屋敷地内に高岡電灯新湊出張所を建設し、高岡から遅れること7年ですが、電灯敷設の願いが叶ったわけです。

夜に綿屋内で電気を消してみたことがあります。
真の真っ暗闇。
明るい生活に慣れた現代人にとって、ブラックアウトはほんとうに恐ろしいと思いました。

電灯のない時代は就寝も早かったのだろうなと思いきや、明治時代の来客日記を見ると、意外にも夜の9時過ぎに来客があります。もっとも、「こんな時間に」と迷惑がられています。


今も天井に下げられている提灯があります。
いつから下げられたままなのでしょう。
提灯を提げて真っ暗な道を照らしながら綿屋を来訪した、当時の人々の姿を想像してしまいます…。

(放生津北前船資料館蔵)

大海原よ、さらば

最期まで力強かった神速丸(放生津北前船資料館蔵)

■北前船経営を終えたのは明治20年

米蔵の扉の裏の落書き。
最期の二艘が「神速丸」と「歓喜丸」でした。
神速丸の文字が鏡文字になっているのが不思議です。船の絵も描かれています。

伏木の藤井能三と三菱汽船を誘致。当時は同業者からの大きな反発もあったようで、藤井能三宅とともに放生津綿屋も三日三晩、暴行に遭ったといいます。
実はこのころには藤井の能登屋にも綿屋にも十分な資金があったとはいえません。波除工事や街道整備、学校、病院、警察署建設等の公共事業への出費に加え、先の旧藩事業での銀行業が松方財政のあおりを受け、おもわしくなかったのです。銀行からの借り入れでなんとか資金を集めて立ち上げたものの、政府が下支えしてきた三菱相手に無謀な賭けにでたと言わざるを得ない結果となりました。

この「越中風帆船会社」や「北陸通船会社」は、藤井、馬場、宮林らが立ち上げたとされていますが、私はかつての領主・前田公からの指示や意向もあったのではないかと考えています。その理由の一つは、賭けに等しいこの企てに「藤井と共に」行動している点にあります。
藤井の伏木能登屋と放生津綿屋は運命共同体の様な関係でした。


彼らの先代が兄弟(従弟説もあり)同志であったため、加賀藩より常に連名で御用を言いつけられています。藤井の能登屋は伏木を、放生津綿屋は放生津の海岸線の波除け工事を言いつけられ、二人で共に海岸線の測量もしています。
明治になり前田公が東京に行かれたとはいえ、旧藩の縁や習慣はそう簡単に変容するものではなく、何においても前田公の意向を確認している様子が資料、書簡などからうかがえます。
旧藩事業の銀行にしても、前田家より藤井の能登屋と放生津綿屋、そして金沢の元藩士ら数名に経営を言いつけられ、これ以外には広げないように、つまり、お前たちでやれと言いつけられていますし、鉄道を北陸~名古屋~東京へとつなげる計画について、株主を集めるようにとの指令も下っています(この計画は途中で頓挫しました)。
いずれにしても、地元有志らの発案だけで動いたとは考えにくく、この時代はまだまだ前田公の意向や指示で動いていたのではないか。
この件については、まだまだ調査が必要です。


結局、海運の近代化への投資は惨憺たる結果となりました。経営は失敗、負債の返済での裁判が続きます。13代彦九郎はついに体調を崩し、裁判所へは診断書を提出し、出頭は代理人を立てています。

しばらくして少し落ち着いた頃でしょうか、明治25年元旦朝の彦九郎の漢詩が残っています。

明治25年元旦。13代彦九郎が遺した漢詩
(放生津北前船資料館蔵)


天と地の古い塵を全て払い落し、
今日、一家でまた新しい年を迎えることが出来た
梅を描いた花瓶の花からはよい香りがして
窓辺のウグイスは親し気に私に語りかけてくる
五歳の子は袴に脚を突っ込み
三歳の幼子は帯を身にまとう
今朝、幼子らはことさらにぎやかにはしゃいでいる
私は今年四〇に二つ年を重ねることになるのだ
古い男児の習慣に身を包んだ子は五歳
初めての袴着でありそしてこの日が袴着の祝いの日
帯をまとった女の子は三歳
これもまた故書に従って慣習通りの装いである


このわずか2か月後に13代彦九郎は明治という激動の時代の真っただ中、その生涯を終えました。

祈り

令和五年十月二日 放生津八幡宮秋の例大祭 
陽が差すことを祈願して。

■加賀藩士 岡田楊斎「臥龍梅 日月」幕。安政三年 七十二翁 楊斎筆(放生津北前船資料館蔵)

海に向かって毅然と建つ綿屋。海に対して背を向けず、海への敬意と深い感謝を表しているように思います。

※主要なテーマ(学習中)

■十村(加賀藩の支配を理解するに重要)
■波除工事
■抜け荷(密貿易)
■異国船渡来之節手当
■庄川ダム建設(庄川発電の歴史) ※複雑
■「綿」交易の正体        ※複雑
■針山大工
■作庭師について         ※資料一切無し
■煎茶と漢詩ブーム
■越中新誌 公美社とは
■豊饒社
■寛文社