天田新道
天田峠(あまだとうげ)改修碑
内務省新潟土木出張所長正五位勲四等伊藤百世題学
北陸道ノ難所倶利伽羅峠の嶮峻(けんしゅん)ハ明治十一年明治大帝巡幸の砌(みぎり)、之ヲ天田峠二移シ新二道路ヲ開鑿(かいさく)シテ以テ人馬ノ往来二稍便(しょうべん)シタリト雖モ幅員狭小紆餘屈曲急坂ヲ成シ山麓二ハ鐡道踏切四个(か)所介在シテ急嶮少ナカラス近代交通情勢二適應セサルヤ甚シ爰(えん)二政府之カ改修?ヲ計畫シ富山縣石動町福町ヨリ石川縣倶利伽羅村竹槗二至ル交通至難ノ區間ヲ内務省直轄ノ下二…
谷がぱっくり大きく開いて深い倶利伽羅峠。
まだ越中が石川縣であった頃、明治天皇の北陸巡幸が発表されました。
倶利伽羅峠は急なうえに狭く、駕籠も輿も通ることが困難であるとのことから倶利伽羅峠の北側の少し緩やかな天田峠のルートが検討されました。天皇巡幸に際して周辺道路の改修は無用との命令も出ていたそうですが、加賀、越中の境にある天田峠開鑿工事は綿屋彦九郎など越中西部の豪商らが寄付金を出し合い進められました。
驚いたことには、輿は前に四人、後ろに四人の担ぎ手が付いたそうですが前方の担ぎ手は天皇にお尻を向けるわけにはいかない為、後ろ向きで進んだそうです。急坂ですし、一人でも転倒すれば大変な状況だと思いますが、転倒した記録は無いようです。