有栖川宮熾仁親王(1835-1895)

(放生津北前船資料館蔵)

清風高節 明治壬年(明治15年)

苦境にあっても曲げない心を、強風にも折れない竹に例えたもの。

有栖川宮第九代・熾仁(たるひと)親王は、有栖川宮慰子妃(前田慰子姫)にとって義理の兄にあたる。号は霞堂(かどう)。

書道・有栖川流は、有栖川宮第五代・職仁(よりひと)親王によって創始され、第八代・幟仁(たかひと)親王と第九代・熾仁(たるひと)親王は、明治天皇と昭憲皇太后の書道師範を務められました。
慶応四年(1868年)3月、明治天皇が神に誓う形で発表された政府の基本方針「五箇条の御誓文」の正本は、第八代・有栖川宮幟仁親王が書かれたものということです。

前田利鬯(1841-1920)

(放生津北前船資料館蔵)

喜雨

喜雨(きう)とは、日照りが続く中での待ち望んだ恵の雨、という意味。
この詞書の趣意は何なのか。

くさも木も四方にうるほふ春雨の
音せぬ御代をあふくもろ人 利鬯

何を待ち望んだ「喜雨」だったのだろう。
この歌が詠まれたのは明治初期、まだ廃藩置県もままならない時期のこと。
四方を潤す春雨。
天皇の御代が、この春雨のように静かに人々を潤しますように、との願いの歌なのかもしれない。

前田利鬯(まえだとしか)公は、加賀大聖寺藩の第14代(最後)の藩主。
加賀藩主14代前田斉泰の七男として生まれたが、大聖寺藩を継いだ兄たちが相次いで亡くなり大聖寺藩を引き継ぐことになった。

三条実美(1837-1891)   

(放生津北前船資料館蔵)

楽春

三条実美は公卿であり政治家。号は梨堂(りどう)

王治本 (1835-1908)

(放生津北前船資料館蔵)

恵而不費 壬午(明治15年) 「恵して費やさず」

 徳のある人は、何事においても無駄な使い方はしない。

王治本は清の公使であり、漢詩人、書家。日本が大好きで、全国各地を津々浦々まで旅行した。
富山行脚については、金澤在住の細野申三や山田天籟が同行した。

千坂高雅(1841-1912)

(放生津北前船資料館蔵)

撫育精神切似親
夙興夜寐未収巾
星霜四歴恰如夢
臨前猶思三國人

明治十六年春二月
和宮林兄送我詩
併為同人嘱  高雅書

【口語訳】
大切に育てようとする気持ちはきっと親にも似ていただろう
朝から夜まで一生懸命仕事に励み、未だ手拭いも収めていない
過ごした年月ははや四年経ち、それはまるで夢のような日々だった
石川を去る目前となってもなお加越能三國のことを思っています


千坂高雅は米沢藩家老の家に生まれ、西南戦争に陸軍中佐として出征した後、第3代石川県令となり金澤に赴任。
金沢・兼六園に建つ「明治紀念標」は彼の尽力によるものだといいます。
13代彦九郎は彼のもとで大いに学んだと思われ、コレラ大流行の際には千坂に相談した上で、新湊に新聞縦覧所を開設しています。

二条基弘(1859-1928)

(放生津北前船資料館蔵)

春興山高

二条基弘の妻は、前田斉泰(13代加賀藩主)公の娘・洽子妃。

重野安繹(1827-1910) 

(放生津北前船資料館蔵)

泉石資風維

(庭の)泉や石が風を紡いでいるようなさまを表したか。

庭を愛でて書いたものだろうと思われる書がいくつもある。
それを考えると、やはり庭は、綿屋にとって自慢のものであったに違いないと思う。

重野安繹(しげのやすつぐ)は薩摩出身の漢学者・歴史学者、日本最初の文学博士。号は成斎(せいさい)。明治新政府の修史事業では修史官トップとなり、六国史以来の国史編纂事業を率いたが紆余曲折があった。

龍草盧 (1714-1792)

(放生津北前船資料館蔵)

負笈従時(ふきゅうじゅうじ)

負笈は、遊学の途に上がることを言うらしい。史記蘇秦伝に「負笈従師不遠千里。」とある。
負笈従時」は、時に従って遊学す、の意味だろうか。

龍草盧(りゅうそうろ)は山城国・伏見に生まれた漢学者・儒学者。広く学問をおさめ、宝暦6年彦根藩の藩需となる。

阪 正臣(1855-1931)

(放生津北前船資料館蔵)

これは阪正臣(ばん まさおみ)が74歳の時の書。御即位とは昭和天皇の御即位を指すと思われる。

御歌所寄人(おうたどころよりうど)」の文字が見える。
これは、明治21年(1888年)、歌道を奨励していた明治天皇の意向により宮内省に置かれた部署で、阪正臣は宮廷歌人として皇族方の歌の指導や添削を行った。

柔らかな親しみやすい仮名文字は女性のための書道教書の手本になったこともあり、当時女性たちの間で大変流行したという。一方、楷書は米庵(市川米庵)流であったようだ。

井上円了(1858‐1919)

(放生津北前船資料館蔵)

高臥林泉(こうがりんせん)

林泉とは庭のこと。庭で枕を高くして寝る、ということから、
庭を眺めながら気ままに余生を過ごしたいものだ、という意か。

井上円了は仏教哲学者であり、現東洋大学設立者。号は甫水。
哲学こそが諸学を統括する学問であるとして哲学の学校「哲学館=東洋大学の前身」を設立する。
哲学館の資金を得るために全国津々浦々を講演してまわり、同時に地方に伝わる言い伝えや不思議な話を集めて調査した。
その調査の成果をまとめ、明治二十六年(1893年)、『妖怪学講義』を創刊した。

小川平吉(1870‐1942)

(放生津北前船資料館蔵)

積善家有餘慶 丁卯(昭和2年) 「積善の家餘慶あり」

善を積んだ家には幸せが訪れる、という意味。

小川平吉は、政治家であり弁護士。鉄道大臣。号は射山。宮澤喜一元首相は孫にあたる。
政界と私鉄5社の癒着事件など、剛腕をふるった逸話が多々存在する。

池上秀畝(1874-1944)

(放生津北前船資料館蔵)

満堂花乗薫

花の薫りが一帯に満ちている、の意か。

池上秀畝(いけがみしゅうほ)は、明治から昭和に活躍した日本画家。高遠町に生まれ、祖父、父ともに画家だった。
父とともに上京し、荒木寛畝に文人画を学ぶ。祖父、父の影響で、幼い頃から短歌・茶道など趣味に没頭した。

丸山晩霞(1867‐1942)

(放生津北前船資料館蔵)

これはいわゆる「揮毫」ではありませんが、こちらで紹介させていただきます。
丸山晩霞は、現在の長野県東御市出身の画家で、信州の美しい自然を水彩画で描いたことで知られています。
これはその晩霞がまだ若い頃、諸国を回りながら家々を訪ね、肖像画を描いて画料を得ていた時代のものです。
「第5世(13代)肖像 明治10年11月8日於金澤撮写真 其後保存明治26年7月上旬信州遊客丸山氏視之而模寫云」と、画の裏書にあります。
明治26年。13代が亡くなった直後、家を訪ねてきた晩霞に写真を渡して描いてもらったのでしょう。

ところで、古い油絵道具が残っています。
油絵をやっていた人物は家系にいないので、晩霞が使ったものかなと考えたりしています。

市河米庵(1779-1858)

(放生津北前船資料館蔵)

市河米庵は江戸時代後期の書家であり漢詩人で、「幕末の三筆」に数え上げられます。

化政期に詠まれた歌に、「詩は詩佛 書は米庵に 狂歌俺 芸者お勝に料理八百善」という狂歌がありますが、
詩佛とは大窪詩佛を言い、漢詩人ですが気取りのない性格で、高岡を訪れた際には綿屋彦九郎の仕切りで、放生津湖に舟遊びに来ています。
そして、米庵は市河米庵、「俺」は、狂歌師の大田南畝(蜀山人)。お勝は当時売れっ子の芸者で、八百善とは徳川将軍家の一行も通ったと言われる、江戸一の料理屋です。当代随一と思うものを盛り込んだ狂歌なのです。

米庵は文化8年(1811年)に富山藩に、文政4年(1821年)には加賀に仕えました。

御幡雪雲(1860- )

(放生津北前船資料館蔵)

■夏日臨江

夏潭蔭修竹
高岸坐長楓
日落滄江静
雲散遠山空
鷺飛林外白
蓮開水上紅
逍遙有餘興
悵望情不終

明治甲辰(明治37年)

出典 楊廣(隋朝第二皇帝)五言古詩

御幡雪雲(みはたせつうん)は、万延元年生まれの大阪曽根崎の書家。
明治初年より十余年かけて名所旧跡を廻り、実に二十年以上かけて全国の家々を訪ね歩いて書画を残しました。

この画ですが、私は「もしかすると…、」という思いがあるのです。
「もしかすると…、放生津綿屋の中庭の池を描いたものではないか」
詩の「江」は長江を指しますが、綿屋の庭をこの詩に寄せて残したのではないかと。

中庭の池
(放生津北前船資料館蔵)

なんとなく…、そんな気がしました。

大谷光演(1875-1943)

(放生津北前船資料館蔵)

■為法

為法とはどのように解釈すればいいのか。以前、教えていただいたのですが難しくて理解できぬままでした。
仏の教えは普遍的なものである、といった意味でしょうか。どなたか教えてください。

大谷光演は、浄土真宗の僧です。号は句仏。別号に愚峰があります。妻は三条実美の御息女。
俳句では正岡子規の影響を受け、独自の感性をもって生涯に多くの俳句を遺しました。

浄蓮寺にある当家の墓に刻まれた「南無阿弥陀仏」は愚峰の揮毫によるものです。

林銑十郎(1876-1943)

(放生津北前船資料館蔵)

林銑十郎は旧加賀藩士。父は砺波郡(現富山県。明治16年の分県までは石川県、加賀藩領だった)郡役所勤め。
陸軍大臣を務めた後、昭和12年(1937年)、第33代内閣総理大臣となり文部大臣も兼任しました。

この掛け軸はちょっと変わっていて、揮毫の下には13代妻、春の写真が貼られていたようですが、今では剝がされています。
何故そのように表装したのかは分かりません。

木箱を水拭きしたら滲んでしまった。
(放生津北前船資料館蔵)

伊藤明瑞(1889-1948)

(放生津北前船資料館蔵)

■日就月将(にっしゅうげっしょう)大正甲寅(大正3年)/1914年

日進月歩と同じような意味で、日々進歩することを言います。

伊藤明瑞は2歳で漢学者の門下生になり、3歳の時には政界人に揮毫するなど、早くから書道家としての才能を大いに開花させました。5歳の時には明治天皇の御前で書を披露し、「日本明瑞」の名を賜ったそうです。後に伊藤博文の書生となり、伊藤明瑞を名乗るようになりました。


※つづく