劉石秋の漢詩

広間に掲げられた劉石秋(りゅうせきしゅう)の漢詩。
物心つく前から掛かっていた。視界に違和感なく入り込んでいたから、バトミントンの羽をぶつけたり、ビーチボールをぶつけたり…平気でやっていた。勿論、故意ではありません。

何十年と掛かっていたのに誰も読もうとする者もおらず、いつしかそれは「由緒書」だと紹介されるに至った。恥ずかしながら読めた文字は「西に白山」と「東に立山」。個別に判読できる文字はあるが意味が繋がらない。家を研究するにあたり、まず最初にやらなければならないことはこの古文書の解読だと考え、得意な方の手をお借りしながら全文を解読した。それは、「由緒書」などではなかった。

劉石秋 りゅうせきしゅう
寛政8年生まれ、明治2年没。(1796-1869)
広瀬淡窓門下。郷里の豊後、京都で開塾。近江の西大路藩藩校・日新館や京都の学習院でも教鞭をとる。


劉石秋の足跡をまだ詳らかに調べてはいないが、劉石秋以後も広瀬淡窓門下の漢学者が多くこの地を訪れている。淡窓門下生は非常に多く、そのネットワークがあったのだろうと思う。見聞を広げるために諸国を旅した彼らは時に長く寄寓して地元の人々との交流を楽しんだ。

この文書はその劉石秋が当家に寄寓し、折しも放生津新町から三日曽根の新居に引っ越すタイミングであり、その際の町の風景や人々、帰船の祝宴の様子など漢詩6首にして当家の主人に送ったものだ。
年代から考えると当時の主人は11代彦九郎であったと考えられるが、この詩から当時の生活ぶりがわかり興味深い。私が一番印象に残ったのは買積船が帰船した様子だ。北前船は寄港地で商いをして帰船することから「買積船」と呼ばれ大きな売上を積んで帰って来た。危険も多く無事に帰ってきた時には喜びもひとしおで、帰船早々祝宴をあげたのか、酒が注がれた盃に帆印か家紋かが映り清々しいと詠っている。

しかし、彼は一抹の不安を隠さず主人に送る。

莫忽家福無尽蔵(家福の無尽蔵をゆるがせにすることなかれ)




あらためて漢詩の面白さを感じています。
学び直すつもりで漢詩と向き合っていきたいと思います。
幕末から明治。当地で詠まれた漢詩の数々を紹介していきます。